39歳の私が『男性更年期障害』と診断されるまでの話

はじめまして。「男のRE:GENKI研究所」所長のGENKIと申します。
かつて私は、仕事や人間関係で大きな挫折を経験し、心身のバランスを崩しました。
そして、39歳で『男性更年期障害』の診断を受けました。
「もう以前のような、前向きな自分には戻れない…」そう本気で思っていました。
しかし、今は違います。
少しずつ元気を取り戻し、未来にワクワクする気持ちが戻ってきました。
絶望の淵にいた私を救ってくれたのは、医学的な知識と、それを基にした地道な努力です。
このブログでは、私がどのようにして挫折や男性更年期と向き合い、再び元気を取り戻していったのか、その具体的な方法をご紹介していきます。
まずは、私の人生のターニングポイントとなった挫折と、男性更年期発症のリアルなストーリーからお話しさせてください。
一心不乱に仕事に捧げた日々

私の20代、30代は、仕事に明け暮れる日々でした。誰よりも早く出勤し、昼休憩はカロリーメイトをかじりながらパソコンに向かい、夜遅くまで残業。帰るときにはいつも最後の一人です。
家に帰ったらお風呂に入り、ご飯を食べ、就寝し、また朝早く起きて出勤する。休みの日はクタクタで、食事も取らず、トイレにもいかず、夕方までベッドの上で過ごすこともしばしばでした。
当時、私は部門のナンバー2として、後輩たちの指導や管理を任されていました。学生時代から見てきた彼らが一人前の医療従事者として成長し、安心して働ける環境をどう整えるか、病院の経営安定も視野に入れながら、日々様々なことを考え、実践していました。
経営会議のメンバーに選ばれ、新規事業の立ち上げにも関わり、大きな責任とやりがいを感じ、新たな資格の取得や仕事に一心不乱に打ち込んでいました。
異変に気づいたのは、35歳を過ぎた頃です。なんとなくやる気が起きない、窓の外をぼーっと眺める時間が増え、ため息ばかりつくようになっていたのです。
「あれっ?なんか変だな…」と感じながらも、「疲れているだけだ、ちゃんと休めば大丈夫」と自分に言い聞かせていました。
そんなとき、大学院への誘いがあり、学歴コンプレックスがあった私は受験を決意。
それから1年間の、仕事と受験勉強の二重生活が始まりました。
朝5時から2時間、帰宅後も疲れた体にムチを打ち2時間、休日は10時間、苦手な英語と向き合いました。「自分で選んだ道だから、挫けず最後までやり遂げる」そう心に決めて必死に続けたのです。体からの危険信号に気づかぬふりをして…
全てが壊れた日

受験まで2カ月を切ったある日、帰宅後に自宅で勉強をしている最中に電話が鳴りました。
「入院患者から感染症の陽性反応が出た。すぐ病院に戻ってきてくれ。」直属の上司からの電話です。
当時、世界中で猛威をふるっていた感染症が、ついに私たちの病院にもやってきたのです。
急いで職場に駆けつけ、翌日からの対策を上司と練りました。様々な対策を考え、スタッフに周知したその3日後、後輩スタッフが感染してしまいました。
スタッフを守れなかった自分に罪悪感を強く感じました。そのスタッフは重症化し、入院治療を受けることになりました。病院内では次々と感染症が広がり、病院機能は停止せざるを得ない状態に陥ったのです。
今後の方針を決定するために開催された緊急会議に私が呼ばれました。経営陣からは「お前の部署が招いたことだ」と責められ、情けなくて涙が止まりませんでした。その後も対応に追われ、家に帰らず徹夜で対応策を考え続けました。
やっと帰宅できた翌朝、体に異変が起こります。「ベッドから起き上がることができない。」心配して起こしに来てくれた妻を前に、体が鉛のように重く、動けません。
突然涙が溢れ、大人になって初めて声を上げて泣き叫びました。
仕事と受験勉強で張りつめていた糸が切れ、心も体もボロボロになった私は、その後しばらく休職することになりました。
この出来事を境に、私の性格や人生観は大きく変わっていきます。
「役立たず」と化した自分

休職中、心療内科に通い、薬物療法とカウンセリングを受けました。しかし、車の運転もままならず、ただ横になっていることしかできません。
早く仕事に戻らなければという焦りから、無理をして復帰しましたが、立っているのがやっとで、全く使い物にならない。
上司に相談し、必要最小限の業務をしていました。そんな中、一部のスタッフから、私の業務量に対する不満の声が上がってきたのです。可愛がっていた後輩からの思いもしない言葉に、絶望しました。
この頃から、私の性格は少しずつ歪んでいきます。些細なことでイライラし、過剰に反応するようになっていました。ひどい時は話しかけられたり、他人の足音にさえイライラする始末。
「このままでは体が持たない」そう感じた私は、次第に人との関わりを断ち切っていきました。自分から挨拶をするのをやめ、すれ違っても目を合わせない。職場で交わす言葉は、必要最低限の業務連絡だけ。
気づけば周囲との距離はどんどん広がり、孤立していきます。そうしなければ心も体も守れないと思い込んでいました。
そんな私の態度と、後輩からの「あの人は仕事をしていない」という風評が広まり、職場に居場所を失いました。10年以上かけて築き上げてきた信頼は、たった数週間で地に落ち、職員の冷たい視線に耐えられなくなりました。
挫折からの再起

仕事に対する熱意はなくなり、やる気もなくなり、なんの役にも立てない自分は退職という選択肢しかなくなっていました。しかし、私が辞める前に、他のスタッフが次々と退職してしまい、部門運営は危機的な状況に陥りました。
直属の上司は定年退職し、残されたのは数人の年長者と若いスタッフだけ。この状態で私が辞めてしまえば、部署の業務は立ち行かなくなるかもしれない。そう考えると、どうしても辞める決断ができませんでした。
自分が招いた状況が、結局は自分の肩にのしかかり、逃げ場を失っていく。無責任な責任感と焦りに押しつぶされながら、心と体はますます疲弊していったのです。
仕事に身が入らず、イライラが募る毎日。帰宅すれば酔いつぶれるまで酒を飲み、虫の居所が悪いと家族にあたる始末。休日は昼間から酔って1日を無駄にする生活が1年半続きました。今思うと妻には本当につらい思いをさせてしまっていました。
ある日の夜、私が寝室に行ったあと、隣の部屋で妻の泣いている声が壁越しに聞こえてきました。妻にどれほどのストレスをかけていたのだろうかと考えると胸が締めつけられるような気持ちになりました。
「病気だから…」と自分を正当化し、その影でいちばん大切な人を傷つけ続けていた。思い出すだけで後悔の念に押しつぶされそうになります。
この瞬間、私はようやく「もう逃げてはいけない、自分と向き合おう」と決意しました。
ふと自分を顧みると、長期間の不摂生で内臓脂肪が蓄積し、病的なレベルで筋肉量が減っていました。
「このままではだめだ。まずは生活習慣を変えなければ。」と強く決意しました。心療内科への通院を続けながら、どうすれば良いのか、医学論文を読み漁りました。
あなたは紛れもない男性更年期障害です。

それから半年ほど、生活習慣を整えようと試行錯誤を重ね、心身は少しずつ回復していきまます。仕事も最低限はこなせるようになりましたが、かつての集中力や意欲は戻ってきません。
「あの頃のやる気に満ちた自分にはもう戻れないのか。人生の輝きは、こんなにも簡単に消えてしまうのか。」
そう考えるたび、胸の奥がぎゅーっと締め付けられます。前に進みたい気持ちはあるのに、重くよどんだ空気が体を絡めとり、一歩を踏み出そうとしても前に進まないのです。
行き詰まりを感じ、「何か他に原因があるはずだ」と模索していたある日。テレビから流れてきたのは「男性更年期障害」のニュースでした。
- 疲れやすい / 筋肉量の減少
- 気分の落ち込み / イライラしやすい
- 意欲や興味の減退 / 仕事への集中が続かない
- 人間関係がわずらわしく感じる
あまりにも自分の症状と酷似していたため、すぐに近くの病院を受診し検査を受けました。
医師から告げられたのは、「あなたは、紛れもない男性更年期障害です」という言葉でした。
ここから、私の男性更年期障害との闘いが始まったのです。
次に続く
このブログでは、私が挫折と男性更年期を乗り越えるために3年間試行錯誤した「心身の不調から再起する方法」を丁寧にまとめています。
あなたに寄り添うヒントが、きっとここにあります。下のカテゴリーから気になる記事をのぞいて、できることから始めてみませんか?
今つらさを感じているなら、まずは『眠り』を整えることから始めてみましょう。
『しっかり休むこと』それが回復への最初の一歩です。
眠りについては下記の『良質な睡眠』から御覧ください。
